講座005 上谷小学校

第4回 ある思い出

今回は4代目校舎、つまり現在コミュニティセンターとして活用されている校舎について振り返っていきましょう。

3代目校舎から4代目の校舎に移転したのが平成14年で、これはちょうど「ゆとり教育」が施行されたのと同じ年です。そして、上谷小学校が休校したのが2008年ですが、この年は学習指導要領の改訂が行われ「ゆとり教育」の見直しがはかられた年でもあります。つまり、4代目の校舎は「ゆとり教育」とともに歩んだ校舎なのです。

 

「ゆとり教育」では生きる力を育むことに重点が置かれました。上谷小学校でも、課外授業が積極的に行われたようです。当時の在校生の方が、夏休みに校庭にテントを張ってキャンプをした時の思い出を語ってくださいました。そのキャンプでは晩御飯を調理室で作り、野外で食べることになっていました。皆で協力して野菜を切り、お湯を煮立ててカレーを作ったそうです。そしてルーを入れて、美味しいカレーが完成し、それを外に持っていこうと調理室を出た途端、その方が、鍋に入っていたカレーをこぼしてしまいました。皆で協力して作り上げたカレーを台無しにしてしまい、申し訳ない気持ちでいると、誰もそんな自分を責めることなく、皆でこぼれたカレーを掃除するのを手伝ってくれたそうです。その心遣いがとても嬉しかったと話して下さいました。

 

生きていく中で失敗や挫折があったとしても、お互いの尊厳を認め合い、その存在のかけがえのなさに思いを遣り、お互いを尊重しあえたならば、それはとても大きな生きる力に成るのではないでしょうか。

しばしば「ゆとり世代」という言葉が批判的なニュアンスで口にされますが制度的な欠陥や方法論的な間違いに拘泥していると、その背後にある本質的なものが蔑ろにされてしまう危険性があります。どの世代にもそれぞれの言い分があるでしょうが、しかし、そもそも教育は主義や主張ではなく、人の成長を支えるためのものであるはずです。

 

成長するとは物事の価値がわかるようになるということではないでしょうか。それは一朝一夕に分かるものばかりではありません。むしろ価値のあるものほど、それが分かるためには長い年月を必要とするものです。かつては小学校として、そして今はコミュニティセンターとして、どのような時代も私たちの成長を信じ見守ってくれている私たちの学舎に思いを馳せると、いつの間にか湧き上がってくる敬意と感謝の想いに満たされています。

 


講座005 上谷小学校

第3回 給食事情

3代目の新校舎が完成したのが昭和31年、そして、4代目の新校舎に移転したのが平成14年なので、3代目の校舎は半世紀にわたる長い歴史を持っています。卒業生の年齢で考えてみると、2018年現在、最初の卒業生が74歳前後で最後の卒業生が29歳前後という計算になります。卒業生の年代が、戦後日本の成長を支えてきた後期高齢者の世代と現役で日本経済を支えている世代にわたっているというのは、3代目校舎の大きな特徴の一つだといえます。前回は三代目校舎ができた頃の様子を、当時の在校生の方の思い出とともに振り返って見ましたが、3代目校舎の後期の小学校生活はどんなものだったのでしょうか。思い出を繙いていきましょう。

 

もともと上谷小学校には、調理室があり、調理員さんも一人いらっしゃったのですが、給食の準備を全て一人でするのは大変なので、途中から、給食は山を一つ越えたところにある本村小学校で作られ、それが、昼前に上谷小学校に届けられるようになりました。それが、大体昭和50年代のことだそうです。この給食の配達は、後には、ある業者に委託されたそうですが、それ以前は、上谷小学校の保護者の方がボランティアでされていたのだそうです。その方によると、当時、上谷の道は非常に悪く、ガードレールもない狭い川の上の道を通らなければならない時は、本当に緊張したとのこと。しかし、子供たちの笑顔が待っていると思えば頑張れたと、笑いながら語ってくださいました。

当時在校生だった、この保護者の方の子供さんは、そんな恐怖と自分の親が毎日戦っていたとは露知らず、昼前に母親の顔が見れることがなんとなく嬉しかったそうです。

人の成長が、見えないところでの他の人の善意に支えられたものだということが、とてもよくわかるエピソードですね。


講座005 上谷小学校

第2回 上谷小学校の歴史(校舎)

上谷小学校の歴史

 

当ホームページを訪問してくださる皆様の中にはご存知の方も多いことと思いますが、上谷コミュニティセンターの前身は小学生のための学び舎でした。様々な事情により、上谷小学校は平成20年に休校しました。本年は上谷小学校が上谷コミュニティセンターとして生まれ変わってから10年の節目の年に当たります。そこで、このweb講座では、今も昔も変わらず地域の人々のために貴重な学習の場を提供し続けてくれている上谷コミュニティセンターの歴史について理解を深めていきたいと思います。

 

上谷小学校は明治8年に創立され、校舎は3度建て替えられています。一度目の建て替えがいつ行われたのかは記録が残っていないためわかりませんが、3代目の校舎は昭和31年に完成し、4代目の校舎が現在上谷コミュニティセンターとして利用されているもので、こちらは平成14年に完成しました。

 

3代目の校舎の建設当時には様々な不便があったようです。その頃小学校に通っておられた方によると、旧校舎の跡地に建て替えが行われたため、完成するまでは、そこからすこし離れた道路沿いの場所に小さな学舎が建てられ、そこで授業が行われていたのだそうです。けれども、グラウンドはないので、体育などでグラウンドが必要なときには、近くの(といってもそこから2.5キロあったそうですが)中学校のグラウンドを借りて運動したのだとか。

 

3代目の校舎が完成してからはそれ以前と比べるととても快適だったとのことですが、体育館がなくて、雨降りの日に思いきり体を動かして遊ぶことができなかったのが、子ども心に残念だったとのことです。しかし、冬場になると、当時ならではの嬉しい出来事もあったそうです。それは、給食のときに児童のお母さん方が当番で味噌汁を作ってくださったことだそうで、具は少なくて汁は多かったけれども体の芯まであったまってとても美味しくて幸せを感じたとのこと。なんだかこんなお話を伺うと心も暖かくなりますね。小さな心遣いに支えられた幸せの感覚は、時代がどれだけ変わっていっても、伝えていきたいものですね。

2代目校舎の写真

3代目校舎の写真


講座005 上谷小学校

第1回 上谷小学校の校歌

上谷コミュニティーセンターの前身である庄原市立上谷小学校が市の教育政策により、休校そして廃校となって、今年で10年を迎えます。これを機に、将来に残していきたい過去の資料を少しずつ整理できれば考えているのですが、まずその第1弾として上谷小学校の校歌を掲載します。いずれ何かの形でレコーディングできれば、とも思っています。

とりあえず、楽譜と歌詞。ご存知の方は、懐かしい気持ちになってみてください。

こちらが伴奏譜です。


講座004 長寿

第3回 長寿の人物

最終回の今回は、長寿の人物を探っていきましょう。

前回の講座では、不老不死の生物について紹介しましたが、実は、不老不死なのではないかと言われる人物は、人間の世界にも存在するようです。その方はマハー・アヴァター・ババジと呼ばれる聖者で、ヒマラヤに隠棲していらっしゃるそうです。伝承によると、西暦203年11月30日生ということですので、今年の11月で1814歳を迎えられることになります。この方には面白いエピソードがあります。彼は、幼少の頃ジャックフルーツという木の実が好きだったので、母親に内緒で、お客さんのために準備されていた分まで食べてしまいました。結果的に母親に見つかってしまい、怒った母親が彼の口に布を詰め込み、危うく窒息死しかけたそうです。いくら不老不死の肉体を持っていても、息をしないとやはり死んでしまうのですね。彼の存在が事実か否かは確認するのがなかなか難しいですが、こうしたユーモラスな逸話が私たちの健康寿命の増進に貢献してくれることはほぼ間違いのないところではないでしょうか。

さて、では、誰も反駁できない明白な記録を持つ最長寿の人物は一体何歳でその天命を全うされたのでしょうか。答えは122歳と164日間だそうです。これはジャンヌ・カルマンさんというフランス生まれの女性の方で、なんと1875年から1997年の間を生き抜かれたとのことです。この期間に日本で起きた歴史上の出来事について考えてみると、1887年に西南戦争そして1995年には地下鉄サリン事件がありました。これら二つの出来事を並べてみれば、どれだけの世相の変化をカルマンさんが経験されたのかということが、おぼろげながらも推察できそうに思います。生きていくためには移ろいゆく環境との調和を図らなければなりませんが、それは自分が変わり続ける覚悟を持つということでもあります。事実、カルマンさんは85歳でフェンシングを始められたり、117歳の時には20代の頃から喫い続けたタバコを、介助する方に対する思いやりから、やめられたりしたそうです。頑固一徹ぶれない芯を持つということも、生きていく上で大切なことではありますが、それが変化することへの恐怖や自分自身の怠惰に対する言い訳に使われるような場面に遭遇することもままあります。しかし、それは変化に伴う喜び、すなわち成長することを放棄するということと同じなのではないでしょうか。何かができるようになっても、何かができなくなっても、そこからその事を通してしか得ることのできない何かを学んでいくことができるならば、いくつになっても成長していくことは可能なのではないかと、カルマンさんの偉大な生涯に触れて思う今日この頃です。

 

(了)

 

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講座004 長寿

第2回 長寿の動物

今回の講座は、寿命の長い動物を紹介していきたいと思います。

さて、鶴は千年亀は万年という諺があります。このように縁起の良い長寿の生物というイメージで語られることの多い鶴と亀ですが、実際のところどうなのでしょうか。鶴の中には80年以上生きたものもおり、鳥のなかでは間違いなく長寿であるといえます。そして、亀には私たち人間よりも長生きするものがいて、アルダブラゾウガメという種類の亀には250年以上生きたのではないかと考えられるものもいるそうです。おそらく亀は陸上で生活する動物の中では最も長命な生き物の一つであるといえます。

海には、もっと寿命の長い動物が沢山います。たとえば、ニシオンデンザメという種類の鮫は400歳以上の個体が確認されていますし、寿司ネタでお馴染みのミル貝は500歳のものが発見されています。

しかし、それらの生物の寿命を圧倒的に凌駕するのがベニクラゲというクラゲの仲間です。なんと、ベニクラゲには寿命がありません。つまり、外敵に食べられたり、不慮の事故で生命を失わない限り、永遠に生き続けるのだそうです。

普通クラゲは成長して衰弱すると海水に溶けてその生に終止符を打つのですが、このベニクラゲは成長して衰弱したあとで、海中にある岩塊などに付着し、ポリプと呼ばれる状態に変化します。

実は、このポリプと呼ばれる状態は、ベニクラゲが成体に変化するための成長段階のひとつなのです。つまり、ベニクラゲはある段階まで成熟すると、今度は一転して若返ります。そして、ある段階まで若返るとまた成熟へと向かいます。こうした過程を繰り返すことでベニクラゲは歳月を超越した生命を手にしているのです。いつまでも若いのでも、ただ年老いていくだけでもない、老いと若さの揺らぎの中をたゆたい続けるバランス感覚さえあれば、不可能なことなどこの世に存在しないのだと、ベニクラゲは私たち人間に教えてくれているような気がします。

 

(了)

※ この講座「陰陽五行思想を考える」は全3回のシリーズで行います。第3回は、3月にアップロードの予定です。

※ この講座の受講証書は、全3回が終了した後に発行を受けることができます。


講座004 長寿

第1回 長寿の植物

 

先進国では高齢化の傾向が顕著ですが、我が国日本でも高齢化が加速度的に進んでいます。なんと現在では四人に一人が65歳以上、二人に一人が50歳以上なのだそうです。ある試算によると、2060年には4人に一人が75歳以上になり、2.5人に一人が65歳以上になるとか。

いうまでもなく、人口の高齢化には深刻な社会問題としての側面があります。

しかし、本講座ではそういった事柄は一旦脇に置いておいて、人々が以前よりも長生きできるようになったという事実に注目したいと思います。そこで、長寿の植物、動物、そして、人物についての知見を得ることで、ステレオタイプな高齢社会のイメージとは違う未来を想像するきっかけになれば良いなと思います。

第一回目は長寿の植物についてです。

専門家の間では、様々な意見があるようですが、一般に世界で最も樹齢が長いとされているのはスウェーデンのダラルナ地方にあるオウシュウトウヒという木だそうです。樹齢は9550年。ほぼ、1万年生きていることになりますね。オウシュウトウヒという種族は酸性雨や排気ガス等には弱くそのために枯死することもあるそうですが、そうした事柄には関係なく強靭な生命力を保ち続けているようです。それどころかこの木は最近50年で成長した幹があるそうです。どこまでも成長し続ける姿勢は私達も見習っていきたいですね。

次に紹介したいのが、バオバブです。バオバブという木も数千年の寿命を持つものがたくさんありますが、南アフリカにはなんと酒場に変化した樹齢6000年のバオバブの木があるそうです。バオバブという木は樹齢が1000年を越えると幹の中が空洞化していくので、それを利用して木の中を酒場として使っているのだそうです。酒場には人々の様々な思いが飛び交います。6000年も生きてきた木であれば、そうした人々の思いを全て受けとめてくれそうな気がします。ただ生きているだけで周りを癒すことができる存在、それは生物が目指すべき究極の姿の一つであると言えるかもしれません。

(了)

 

第二回へ続く

※ この講座「長寿」は全3回のシリーズで行います。第2回は、来年1月にアップロードの予定です。

※ この講座の受講証書は、全3回が終了した後に発行を受けることができます。

 


講座003 陰陽五行思想を考える

相性と相剋

陰陽五行思想についての講座も今回で最終回となります。まずは、前回少し触れた「相生」と「相剋」という概念について見ていきましょう。

陰陽五行思想において万物を構成する五つの要素である木、火、土、金、水には、お互いを強め合う「相生」という関係と、お互いを弱め合う「相剋」という関係があるというお話を前回しました。そして、木→火→土→金→水という順序は「相生」の関係にあるといいました。それはなぜでしょうか。

それはこういうことです。木は燃えると火になります。火は灰、すなわち土を生み出します。土の中からは鉱物、すなわち金が生じます。そして、鉱物は腐食してミネラルとなって水と溶け合うことで栄養豊かな水を作り出します。そして、水は木々を育む大きな力となるという訳です。

反対に、「相剋」の関係はどのようになるでしょうか。木→土→水→火→金となります。木は土を突き破って成長し、土は水をせき止めて、水は火を消し、火は金を溶かしてしまい、金は木を傷つけてしまう、そのようにお互いの特徴を弱める関係となるからです。

では、こうした考え方が実際にどのように役立つのでしょうか。例えば五臓六腑という言葉があります。実は、これも陰陽五行思想に対応しているのです。五臓の肝臓は木、心臓は火、脾臓は土、肺は金、そして腎臓は水にわりあてられます。

伝統的な西洋医学では、たとえば、肝臓が悪い時、肝臓という臓器自体に大きく注目します。しかし、陰陽五行思想に裏付けられた東洋医学では、木である肝臓の働きを金である肺が「相剋」の関係によって弱めているのではないか、あるいは水である腎臓の働きが強すぎて木である肝臓との「相生」関係のバランスが崩れているのではないかといった、全体の関係性に注目するのです。

さて、私たちは何か問題が発生したとき、その問題を解決しようとあせるあまり、その原因探しに躍起になり、その問題がどのような関係性の中で起こったのかということに関して認知する努力を怠ることがしばしばあるのではないでしょうか。しかし、本当に重要なのは、その問題にどのような意味をもたせ、またそれに自分がどのように関わっていくかということなのだと、私たちの祖先が大切にしてきた知恵は教えてくれているような気がします。

(了)

 

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講座003 陰陽五行思想を考える

第2回 五行思想についての確認

 第二回の今回は五行思想について確認していきたいと思います。

 

 五行思想は中国最古の王朝「夏」の伝説的な皇帝である「禹」によって作られたといわれています。その内容は、全てのものが「木火土金水」という五つの要素から成り立っているという考え方です。

 

 現代人にとって、万物がたった五つの要素で出来ているという考え方は、にわかには受け入れがたいかもしれません。化学の周期表をご存知の方は、化学物質の元となる元素は人工的に作り出された物も入れると既に100以上もあるではないかと、反発したくなる気持ちも起きてくるのではないでしょうか。

 

 しかし、五行思想に出てくる五つの要素「木火土金水」は、化学における元素のようなものではありません。化学における元素は、元素同士の差異を細分化し続けた結果見出だされた関係性です。それに対し、五行思想は、全てのものを「木火土金水」という五つの要素の関係性の中で見ようという考え方なのです。

 

 つまり、五行思想に於いては全ての事象の中に木の役割、火の役割、土の役割、金の役割、水の役割を果たすものが存在しているということになります。そして、同じ事象であっても、それぞれが適切な関係性を保ちそしてそれぞれの役割を全うしているときとそうでない場合には違った状態で現れることになるというのが五行思想の考え方なのです。

 

 五つの要素同士の関係の仕方で特徴的なものに「相生」と「相剋」という概念があります。詳しくは第三回の講座で見ていきたいと思いますが、「相生」はそれぞれの要素が相補的に強め合う関係で、「相剋」はその逆にそれぞれの要素がお互いを弱めるような関係を言います。実は、本稿で度々使用してきた「木火土金水」という五つの要素の順序は「相生」になっているのですが、なぜだか解りますか?次回までの宿題とします。よく考えればきっと分かりますよ。

 

(了)

※ この講座「陰陽五行思想を考える」は全3回のシリーズで行います。第3回は、3月にアップロードの予定です。

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講座003 陰陽五行思想を考える

第1回 陰陽思想とは何か


私たちは、しばしば西洋的な価値観と対照的な物の見方や考え方を「東洋的」であると形容する場合があります。


通常、「西洋的」という言葉には論理的整合性を重んじる、あるいは分析的に物事を見て判断するといった意味合いが付与されており、現実的な態度で物事と接する場合に使用されることが多いと思います。そこから対比的に使用される「東洋的」という言葉には必然的に、非論理的で曖昧な性質を持つものといった響きがあり、現実から遊離した神秘的な雰囲気を感じさせるような物事に対して使用される傾向があるのではないでしょうか。


しかし、伝統的な東洋の物の見方や考え方も非常に優れた現実認識の方法であり、その固有の価値観に基づいた高い精神性や思想が魅力的な文化を形作る原動力となってきた事実を忘れてはなりません。


そこで、この講座では、東洋の人々がどのように現実を認識し、現象を体系付けて理解してきたかを、東洋の代表的な思想である陰陽五行思想について学習していくことで探っていきたいと思います。


陰陽五行思想は、陰陽思想と五行思想というもともとは別個の思想であった二つの思想が組み合わされてできあがったものです。五行思想については次回の講座で触れていくことにして、今回は陰陽思想がどのようなものなのかということについて確認しておきましょう。


陰陽思想は、古代中国神話に登場する最古の王といわれる伏羲(紀元前3350~紀元前3040年)によって作られたといわれています。その内容は、簡単にいうと、全てのものは陰と陽から成り立っていて、それらが消長を繰り返すことが新たな発展の原動力になるという考え方です。


たとえば、私たちは、何らかの出来事に遭遇した際、その出来事に対して良い悪いなどの価値判断を行いながら生きています。それは重要なことであるに違いないのですが、年月を経れば、その出来事に対する良い悪いといった価値判断が、その出来事が自分にとって必要な経験だったという認識に変わる場合も少なくありません。


陰陽思想もまた、あえて陰と陽という相反するものを事象の中に読み込むことで、対立を越えた認識へと至ることを目指す、そういった方法論であるということができるのではないかと思います。


第二回へ続く

※ この講座「陰陽五行思想を考える」は全3回のシリーズで行います。第2回は、来年1月にアップロードの予定です。

※ この講座の受講証書は、全3回が終了した後に発行を受けることができます。

 


講座002 絵画を楽しむ

第3回 少しだけピカソのこと

この講座も今回で最終回となりました。今回は、美術に関心のない人でも名前は聞いたことのあるピカソに触れてみたいと思います。

その前に少しだけ。前回の講座では、光そのもの、感じたそのままを写し取ったモネなどの印象派の絵画を見てきました。こうした絵画はときに感覚的に過ぎて、ものの形態や構図、そして、それらを総合しての造形を通して感じられる実在感が弱くなることも否めません。

セザンヌは、印象派から出発した画家でしたが、ものの形へのこだわりが強い画家であったように思います。彼の作品をいくつか見てみます。


(左から「ショケの肖像」「ガスケの像」「サン・ヴィクトール山」)

筆致は荒々しく、形へのこだわりがよく表れていると思います。彼の絵をもう少しよく理解するために右の画を見てください。これは物体を面の集合としてとらえ、構成するための「面取り」と呼ばれるデッサンの方法のひとつですが、面取りのスケッチのあとでセザンヌの作品を見ると、セザンヌはものを面の集積体として再構成していったことがわかると思います。言葉を変えると、絵画において「形そのもの」が主題となったということです

さて、そこでピカソ。彼は、セザンヌ以上に「形そのもの」への探求を深めていった画家といえるでしょう。いわゆる「キュービズム(立体派)」と呼ばれる様式の完成です。同一の対象を同一の視点から眺め続けるということは、絵を描くうえでの基本的な身体動作ですが、それこそ、絵を描く以外の日常の中にこうした身体動作はほぼあり得ない、その意味で不自然な行動です。ピカソは、そこから抜け出そうとした。様々な角度から、様々な時間的な視点の変化も含めて対象を眺め、それを自分なりのやり方で一つの作品として統合していく。

こうして考えてみると、絵画というのは、限られた2次元の紙の上に、3次元の物の時間的、空間的な広がりを押し込める、というある意味で無謀な試みなのかもしれません。

(左から)「ギター弾き」「泣く女」「ゲルニカ」


対象を解体し、再構築を繰り返す主体としての作者の意志が絵画の面白みということになるのでしょう。

ところでピカソは、いくつもの名言を残していることでも知られています。その中から3つ紹介して講座を締めくくることにします。

 

 

・青がないときは赤をつかえばいい。


・(反戦の絵画として有名な「ゲルニカ」をめぐるやり取り。)

 ナチス「これを描いたのはあなたですか?」

 ピカソ「いや、違う。きみたちだ」 

 

・コンピューターなんて役に立たない。だって、答を出すだけなんだから。

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講座002 絵画を楽しむ

第2回 光を描く

前回の講座では、3次元のものを2次元の紙の上に表現する方法を見てきました。そして、光を描くために陰を描く方法(言い換えれば、陰を描いて光を表現する方法)でもなく、実在そのものを描く方法でもなく、光そのものを描いて物の存在に迫る方法はないのか? という問いを最後に投げかけたのですが、今回の講座ではそれについて掘り下げてみましょう。

そこで少し考えてみたいのですが、そもそも、光とは何でしょうか。ある辞書を引くと、目に感じる明るさのこと、と書かれていました。これを頭に入れて下の絵を見てください。モネの「印象 日の出」と「ラ・グルヌイエール」です。

    「印象 日の出」          「ラ・グルヌイエール」

いかがでしょう。まさに、目に感じられた明るさそのものが描かれていることがわかります。とくに「ラ・グルヌイエール」における水面の表現は見事に光をとらえ、それを表現しています。

この作品が描かれた当時、写真という新技術が台頭してきました。写真と絵画は、見たものを写し取る、という点において同じ目的を持っています。そして、両者を単なる写実性という点において比較すると、圧倒的に写真のほうが優位であることに間違いはありません。では「ありのままを写す」という点において絵画が写真に勝てないとすれば、絵画の生き残る道は何か。それは「感じたままを写す」ということになってくるわけです。

ダ・ヴィンチは、スフマートによって筆致を消し去り、写実表現を極めました。筆致を消したということは、そこにかかわった人間の痕跡を消したということです。しかし、写真という技術により、写実表現は写真に任せ、絵画は絵画によってしか表現することのできない人間の痕跡=筆致を主張し始めた。

モネに影響を与えた画家としてよくターナーの名が挙がりますが(左の絵はターナーの「雨、蒸気、速度 大西部鉄道」)、彼の作風は外界を写し取る絵画ではなく、風景を眺めて生じる感傷を描く絵画です。このような絵を見ると、ふと作者は何をどんなふうに感じたのだろうかとその心に触れてみたくなる気がします。見るものを参加させる表現がそこにあり、これが絵画の持つ豊かさということになってくるのだと思います。

同じものを見ても、人が違えば感じ方が違う。光そのものを描き、物の存在に迫るとは、それを描いた人の感じ方、心に迫るということなのかもしれません。

※ この講座「時間、暦について考える」は全3回のシリーズで行います。第3回は、9月にアップロードの予定です。

※ この講座の受講証書は、全3回が終了した後に発行を受けることができます。


講座002 絵画を楽しむ

第1回 光と陰と実在を描く

上の絵、ぱっと見ると水墨画のように見えます。しかし、これは水墨画ではありません。にわかには信じがたいように思われますが、17世紀のバロック絵画なのです。もちろん、それそのものではなく、ある加工がしてあります。元の絵が下のもの。それではどんな加工がしてあるのかというと、ポジとネガの反転です。(絵はコルネリス・ド・ヘーム「果実と海老のある静物画」

彫刻などの立体的な作品と違い、絵画は平面上に描かれます。したがって、作品を完成させていく上で、平面上にどのようにして立体を再現するのかということがテーマの一つとしてあがってくるわけですが、その解答として陰影による表現があります。レオナルド・ダ・ビンチによって描かれた「モナ・リザ」はスフマートによる陰影表現の極限と言われるほどの量感を湛えていますが、こうして完成された立体表現としての陰影の技法は、やがて、平面上に立体を再現するための陰影から、光と闇のドラマチックなコントラストを楽しむ、つまり、絵画の劇的な要素を強調し、それを高めていくための陰影表現になっていきます。ちょうど、ステージ上でのスポットライトのような効果を狙っているわけです。カラバッジオやレンブラントにみられる明暗法(キアロスクーロ)です。


     【レオナルド・ダ・ビンチ「モナ・リザ」】

   顔の部分だけを切り抜きましたが、筆致を残さず、そして

   れほどまでに見事に実在感を表現する技法はレオナルド・

   ダ・ビンチによって完成され、また、彼にしかできないもの

   でもありました。同時代の画家たちから、「奇跡」と言われ

   るはずです。

     【明暗法による作品】

   絵は左から、カラバッジオ「聖マタイの召命」、レンブラント「水浴の女」、

   ライト・オブ・ダービー(ジョセフ・ダービー)「空気ポンプの実験」

明暗法が隆盛になってくると光を描き、光を強調するために、画面の大半を暗部として描くようになってきます。このことは、物の存在をキャンバスに描くために、物が反射した光を忠実に再現しようとしたそれまでの技法に対して逆説的と言えます。

さて、ここで改めて最初の静止画をみて少し考えてみましょう。卓上の果物、食器に反射する光を効果的に表現するために、背景は暗く描かれている。そして、それを反転させると水墨画のようになるということ。これは、元の絵で光が当たって明るくなっている部分が暗くなり、逆に、陰の部分が白くなっているわけですから、作者の本来の意図からすれば、絵画として破綻していると言えそうなものですが、しかし、ちゃんと絵画として成立しているように見える。西洋絵画が光の様子を捉えようとして陰を描き、物の存在に迫ろうとしたのに対して、東洋の絵画は、そうした光や陰に左右されないそのものの実在にダイレクトに迫ろうとした技法として成立しているからこうしたことが起こるのではないでしょうか。

それではもうちょっと進んで、光を描くために陰を描く方法(言い換えれば、陰を描いて光を表現する方法)でもなく、実在そのものを描く方法でもなく、光そのものを描いて物の存在に迫る方法はないのか? これについては次回の講座で考えてみたいと思います。

※ この講座「時間、暦について考える」は全3回のシリーズで行います。第2回は、7月にアップロードの予定です。

※ この講座の受講証書は、全3回が終了した後に発行を受けることができます。


講座001 時間、暦について考える

第3回 1年という単位

今回でこの講座も最後となります。これまで、1日、1ヶ月という時間をみてきましたので、今回は1年という時間について確認して、この講座を締めくくりたいと思います。

「年」という漢字の字義を調べてみるとわかりますが、「年」は時という意味のほかに、みのるという意味や穀物という意味も持っています。いうまでもなく、穀物の実りは季節の移り変わりと深い関わりがあります。そして第2回の講座で少し触れましたが、太陽と季節は極めて密接に関係しているわけです。

旧暦においては、月の満ち欠けが1ヶ月を構成していたことを前回確認しましたが、すなわちそれは月が地球の周りを1周する期間のことです。では1年というのは何かというと地球が太陽の周りを1周する期間のことです。その1周する間に変化する太陽と地球の位置関係が季節の変化となって私たちの生活に様々な彩りを添えてくれるわけです。

ところで、季節というのは春夏秋冬という四季のことですが、昔の人たちはそれぞれの四季をさらに6つずつに細かくわけた二十四節気という指標を活用していました。

順に書いてみますと、春〔立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨〕、夏〔立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑〕、秋〔立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降〕、冬〔立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒〕といった具合です。

この中で、春分(3月21日頃)と秋分(9月23日頃)は太陽が真東から昇り真西に沈みます。この日は昼と夜の長さが同じになる特別な日で、国民の祝日として休日になっているのはご存知の通りです。

二十四節気は、太陽が真東から昇る春分を起点と考えて、太陽が1年かけて移動する道筋である黄道という360度の円を15度ずつに分割して、それぞれのポイントに各時期ごとで特徴的な自然現象を名称として付したものです。

1年365日を24で割ると約15.2となり、太陽が15度の角度を移動するのにおよそ15日程度かかることになります。ですので、二十四節気は大体15日間隔で変化して行く季節の指標となります。

春分というのは昼夜の長さが同じになるので旧暦の太陰太陽暦以外の暦でもとても重要な日でした。私たちが現在使用している新暦を遡っていくとローマの暦に辿りつきますが、そこでは最初、春分を1年の始まりとしていたほどです。

ちなみに、現在私たちが使っているのはグレゴリオ暦という太陽暦です。この暦は16世紀にローマ法王だったグレゴリウス13世が制定したもので、そのためその成立過程ではキリスト教という宗教が大きな意味を持っていました。

グレゴリオ暦の前はユリウス暦という暦を使用していたのですが、その暦は太陽の運行との間に毎年約11分14秒の誤差が生じてしまうものでした。グレゴリウス13世の時代、ユリウス暦が制定されてから1600年近くの時が流れる中でその誤差は積もりに積もって10日近いものとなってしまっていました。

すると、キリスト教で最も大切な行事である「復活祭」を正しい日取りで行うことができなくなってしまいました。なぜなら「復活祭」は「春分を過ぎた後に来る最初の満月後の最初の日曜日とする」と決められていたからです。

ユリウス暦では春分は3月21日とすると決められていたので、実際の春分と暦の上の春分が10日近くずれてしまっていたわけです。

そこでグレゴリウス13世は1582年の10月4日の次の日を10月15日として、その間の10日間を暦から省きました。そうして、太陽の運行と暦のずれを調整し、今後のずれをより少なくするために閏年の定義を次のように改めました。

「西暦年が4で割り切れる年を閏年とする。ただし、西暦年が100で割り切れても、400で割り切れない時は平年とする。そして閏日は2月28日の翌日2月29日とする」

こうすることで太陽の運行と暦の誤差は年間約26秒にまで縮められることになりました。これが現在私たちが使用している暦です。

グレゴリオ暦は非常に分かりやすくて、しかもとても小さな誤差しか持ちません。しかし、年月を重ねるごとに太陽との関係は確実に薄れていきます。この辺りを、自然現象との関係性をダイレクトに暦として表していた太陰太陽暦と比べるととても面白いと思います。やはり私たちのライフスタイルや意識のあり方と時間の捉え方は大きな関係があるのではないかと思えるからです。(了)

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講座001 時間、暦について考える

第2回 一ヶ月という単位

前回の講座では、現在とは違う時間の区切り方を1日という単位で見てみましたので、今回は一ヶ月という単位について見ていきたいと思います。

現在私たちは太陽の動きを基準とした太陽暦という暦を使用しているので、一ヶ月という時間は1年を構成するための単位のひとつといったくらいの認識の方もおられるかもしれません。

しかし、一ヶ月というのは読んで字のごとく、月がひとつということを表し、もともとは月が現れてそして消えていくまでの期間を1つのサイクルとして捉えたものです。

たとえば、私たちは一ヶ月の始まりの日を「ついたち」と呼びますが、これは「月立ち」という語の音便だそうです。つまり、隠れていた月が立って少しずつ姿を現し始める日という意味が込められているわけです。

また「ついたち」という読みを「朔日」という漢字に当てる場合があります。これは新月の状態を「朔(さく)」と呼ぶからです。反対に満月の状態を「望(ぼう)」と呼びます。藤原道長の「この世をば 我が世とぞ思う 望月の欠けたることも なしと思えば」という歌に出てくる望月(もちづき)とは望の状態の月である満月のことを指しています。

「朔」から「望」に至るのに大体15日、そして「望」から「朔」へも15日程度で移行します。新月から次の新月までの平均周期が約29.5日ですので、陰暦の一ヶ月は29日か30日で成り立っています。29日の月を「小の月」30日の月を「大の月」と呼び、陰暦ではこれらの月を組み合わせて12ヶ月のカレンダーを作っていました。

しかし、29.5日を12ヶ月分掛け合わせても354日にしかなりません。季節というのは太陽と深く関係しています。

すると、1年が354日しかない太陰暦と1年が365日の太陽暦では1年で10日以上もの誤差が生じてしまうことになり、何年か経つと太陰暦という暦と季節との関係が全くなくなってしまいます。たとえば、ある年の1月は冬だけど、別の年は夏なんてことになってしまうわけです。

それでは困るので、昔の人は3年に一度くらいの割合で余分な1ヶ月を挿入してその1年を13ヶ月にすることで季節と太陰暦の関係を保っていました。このように大体3年に一度挿入される余分な月のことを閏月と呼びます。

こうして閏月を入れて季節と月の関係を保つように工夫された暦を太陰太陽暦といいます。さきほども言ったように、太陽と季節というのは深い関係がありますので、太陽暦を併用した太陰暦ということでこのように呼ばれます。

太陽暦の19年分の日数と太陰暦の235ヶ月はほぼ一致しています。日数でいうと6939日ということになりますが、この周期で太陽と月が同期するわけです。その同期する日、太陽は1年で最も短くなり、月は新月を迎えるわけですが、昔の人たちはその日を「朔旦冬至」と呼んで大きく祝いました。

なぜならその日は月が新しく生まれ変わる日であり、またその日を境に太陽も日照時間が少しずつ長くなっていく復活の日だからです。昼と夜の空の主役が同じ日に復活を遂げるわけですから、昔の人たちが瑞祥吉日として大事にした気持ちもわかりますね。

しかし、そもそもなぜ昔の人たちは太陰太陽暦などという面倒なものを使っていたのでしょう。日本人は農耕民族ですが、季節を知るのであれば、太陽暦のみで充分間に合う気がします。

その理由は、電灯が整備され、スイッチ一つで遠くまで見渡すことのできるライトを持っている現代の私たちには上手く想像できませんが、昔の人々にとっては月がとても頼りになる夜間照明だったからです。

ただ、満月の日には相場が荒れたり猟奇的な事件が起こりやすいといった統計もあるみたいですから、太陽暦だけに慣れきった私たちには分からない何らかのリズムを昔の人たちは知っていたのかもしれませんね。

ちなみに昨年2014年は171年ぶりに旧暦9月の閏月があり、また朔旦冬至もあったという、とても珍しい年でした。暗いニュースも多いですが、同時復活を19年ぶりに遂げた太陽と月は何か明るい未来を予見させてくれる気がしますね。(了)

※ この講座「時間、暦について考える」は全3回のシリーズで行います。第3回は、3月にアップロードの予定です。

※ この講座の受講証書は、全3回が終了した後に発行を受けることができます。


講座001 時間、暦について考える

第1回 1日という時間の区切り方

豊かな自然に囲まれた環境で生活していると、時間の経過、季節の移ろいが見事に私たちの接する日常の景色の中に反映されていくのを目にすることができます。


たとえばここ上谷町では、春になると美しい山桜をそこかしこに見つけることができますし、ブッポウソウが元気良く飛び回り始める時期に一斉に始まる田植えには初夏の訪れを感じる人も少なくないのではないでしょうか。


梅雨の時期には蛍が清流に飛び交い、夏には蝉の鳴き声と豊かな緑が山々に映えます。稲刈りを終える頃、徐々に色付き始める山の木々は実り豊かな秋の到来を予感させ、紅葉に彩られた美しい季節が過ぎ去った後には、雪景色が冬の寒さを告げてくれているかのように銀色に光ります。


私たちはこのように巡る四季の中で生かされています。さらにいえばこうした季節の営みが繰り返されることを前提として考え出された様々な知恵の上に、私たちの生活は成り立っているということができると思います。


農業を例にとって考えてみましょう。広島県の5月と10月の平均気温はほとんど同じなのですが、10月に田植えを行われる農家は基本的にはないのではないでしょうか。10月に田植えをしても、徐々に気温が低くなっていくなかでは稲が充分には育たないと知っているからです。


もちろん、温度だけが稲の成育に関係しているわけではありませんが、このようなことが行われるのは、短い期間では似ているように思える環境も、もっと大きな枠組みの中ではそれぞれが全く違った役割を担うものであると認識しているからです。


つまり、私たちは時間の中で生きているわけですが、その時間を上手に区別して整理し、そして利用しているわけです。時間は絶え間なく流れ続けているわけですから、本来どこに目印をつけてどのように整理しても良いものです。


これから3回の講座で、普段私たちが当たり前のものとして利用している時間について考えてみたいと思います。


先人たちが利用して生きていた時間の枠組みと比較したりしながら、私たちがどのような枠組みでとらえた時間に生きているのかということを、改めて考えるきっかけになれば幸いです。


さて、第1回目の今回は、1日という時間の区切り方についてです。


現在私たちは午前0時に一日が始まると、それを24等分したものを時刻として使用しています。しかし、明治6年に現在の時刻制度が採用される以前は一日を12分割して過ごしていました。


一日の始まりは、太陽が昇って来る時でした。この時間を「明け六つ」と呼びました。どうやら時間を知らせるために太鼓を6回叩いて知らせたことからこのように呼ばれたようです。


では、「六つ」の次は「七つ」へと増えるのかというと、そうではなく、「五つ」「四つ」と減っていきます。そして正午になると今度は「九つ」に増えて、そこからはまた「四つ」に向けて減っていきました。そして現在でいう深夜0時辺りにまた「九つ」になるという仕組みです。


太陽が昇る時を「明け六つ」といいましたが、太陽が沈んで行く時は「暮れ六つ」といいました。太陽の日の出と日の入りは季節によって変わってきますので、正午(=太陽が南中した時)の「九つ」からそれぞれの「六つ」までの時間も季節によって一定していませんでした。


つまり、夏と冬では「一つ」の長さが全然違ったのです。夏は太陽は早く昇って遅く沈みますから、昼間の「一つ」は長く夜の「一つ」は短くなります。冬はその逆でした。


現在の私たちから見れば随分アバウトな感じもしますが、これでも充分に用が足りていたという事実が興味深いですね。(了)


※ この講座「時間、暦について考える」は全3回のシリーズで行います。第2回は、来年1月にアップロードの予定です。

※ この講座の受講証書は、全3回が終了した後に発行を受けることができます。