講座005  いわさきちひろについて

 まずは、いわさきちひろの絵を鑑賞してください。

 いわさきちひろは、1918に福井県武生町(現在は武生市)三姉妹の長女として生まれました。生家は裕福でカメラありちひろの幼いころの写真も残っています。ちひろは幼少のころから絵を描くのが得意でした。

 18歳の頃、書を習い始めました。のちに彼女の作品に見られる東洋の伝統的な水墨画の技法にも通じる、にじみやぼかしを生かした独特な水彩画には、の影響もあると思われます。

 20のとき、両親のすすめにより結婚をしましたが、これは幸福な結婚ではありませんでした。翌年夫は自殺し、ちひろは、二度と結婚しないと決意したのでした。

 26歳のとき、東京大空襲にあい、東京の家を焼かれた彼女は、母の実家である長野県に疎開し、ここで終戦を迎えました。ちひろはこの時初めて戦争の実態を知り、自分は何も知らなかったのだと愕然としました。そして、27歳のとき、宮沢賢治ヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、戦前、戦中期から一貫して戦争反対を貫いてきた日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加したのち入党。その後上京して、働きながら絵を学び、画家として自立したのでした。

 30歳。画家としての多忙な日々を送っていたちひろは弁護士を志す松本善明と結婚。絵を描きながら、夫を支えました。

 1940年代から50年代にかけてのちひろは油彩画も多く手がけていましたが、196344のときに、雑誌「子どものしあわせ」の表紙絵を担当することになり、そのことがその後の作品に大きく影響を与えます。「子どもを題材にしていればどのように描いてもいい」という依頼に、ちひろはこれまでの迷いを捨て、自分の感性に素直に描いていったのです。1962の作品『子ども』を最後に油彩画をやめ、以降はもっぱら水彩画に専念。やがて、独自の画風を追い始めます。「子どものしあわせ」はちひろにとって実験の場でもあり、そこで培った技法は絵本などの作品にも多く取り入れられちひろの代表作となるものがこの雑誌で多く描かれるようになりました。この仕事は197455歳で亡くなるまで続けられ、ちひろのライフワークともいえるものでした。

 自らも東京大空襲を経験したちひろは「子どもの幸せと平和」を願い、原爆やベトナム戦争の中で傷つき死んでいった子どもたちに心を寄せていました。

 1972ちひろは体調を崩します。医者は、十二指腸潰瘍だといい、ちひろもそう思っていましたが、そんななかで童画ぐるーぷ車展覧会に「こども」と題した3枚の作品を出品しました。これは、アメリカ軍のベトナム侵略への抗議と平和への願いを込めて、戦場におかれた子供たちを描いたものでした。これがきっかけとなって、ベトナム戦争の中での子どもたちを描いた彼女の最後の絵本『戦火のなかの子どもたち』が制作されたのですが、体調を崩したちひろは入退院を繰り返しながら、1年以上の歳月を費やしています。これがちひろ最後の絵本です。 1973年秋、この絵本が刊行されたころ、肝臓癌におかされていることがわかります。そして、197488、原発性肝臓癌のため亡くなりました。ベトナム戦争が終結する8か月前でした。

ちひろの言葉を二つ紹介しておきます。

私もさわりたくてしょうがないんです。その辺に赤ちゃんなんかいると自分のひざの上に置いておきたい。

親はどうしてもさわらずにはいられないものじゃないかしら。私はさわって育てた。小さい子どもがきゅっとさわるでしょ。あの握力の強さはとてもうれしいですね。あんなぽちゃぽちゃの手からあの強さが出てくるんですから。そういう動きは、ただ観察してスケッチだけしていても描けない。ターッと走ってきてパタッと飛びついてくるでしょ。あの感じなんてすてきです。

大人になること


人はよく若かったときのことを、とくに女の人は娘ざかりの美しかったころのことを何にもましていい時であったように語ります。けれど私は自分をふりかえってみて、娘時代がよかったとはどうしても思えないのです。

といってもなにも私が特別不幸な娘時代を送っていたというわけではありません。戦争時代のことは別として、私は一見、しあわせそうな普通の暮しをしていました。好きな絵を習ったり、音楽をたのしんだり、スポーツをやったりしてよく遊んでいました。
けれど生活をささえている両親の苦労はさほどわからず、なんでも単純に考え、簡単に処理し、人に失礼をしても気付かず、なにごとにも付和雷同をしていました。思えばなさけなくもあさはかな若き日々でありました。

ですからいくら私の好きなももいろの洋服が似あったとしても、リボンのきれいなボンネットの帽子をかわいくかぶれたとしても、そんなころに私はもどりたくはないのです。
ましてあのころの、あんな下手な絵しか描けない自分にもどってしまったとしたら、これはまさに自殺ものです。

もちろんいまの私がもうりっぱになってしまっているといっているのではありません。だけどあのころよりはましになっていると思っています。そのまだましになったというようになるまで、私は二十年以上も地味な苦労をしたのです。失敗をかさね、冷汗をかいて、少しずつ、少しずつものがわかりかけてきているのです。なんで昔にもどれましょう。

少年老いやすく学成りがたしとか。老いても学は成らないのかもしれません。

でも自分のやりかけた仕事を一歩ずつたゆみなく進んでいくのが、不思議なことだけれどこの世の中の生き甲斐なのです。若かったころ、たのしく遊んでいながら、ふと空しさが風のように心をよぎっていくことがありました。親からちゃんと愛されているのに、親たちの小さな欠点が見えてゆるせなかったこともありました。

いま私はちょうど逆の立場になって、私の若いときによく似た欠点だらけの息子を愛し、めんどうな夫がたいせつで、半身不随の病気の母にできるだけのことをしたいのです。

これはきっと私が自分の力でこの世をわたっていく大人になったせいだと思うのです。大人というものはどんなに苦労が多くても、自分のほうから人を愛していける人間になることなんだと思います。


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